2011年10月6日木曜日

源頼光公館土蜘作妖怪図

歌川国芳の『源頼光公館土蜘作妖怪図』だが、
妖怪には権力に対する反感を表明するために、寓意として出てきてもらうことがあるようだ。

ウィキペディアには下記のような説明が〜
国芳45歳の時、運命は一変する。老中水野忠邦による天保の改革。質素倹約、風紀粛清の号令の元、浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。『源頼光公館土蜘作妖怪図』(1843年天保14年))は、表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは頼光と見せかけて実は、将軍徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠をむさぼっているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけ、天保の改革の中心人物、老中水野忠邦である。また、着衣の家紋や模様から、他の頼光四天王で碁を打っている渡辺綱真田幸貫坂田金時堀田正睦、湯飲みを持っている碓井貞光土井利位、土蜘蛛は筒井政憲矢部定謙美濃部茂育を指すとされ、他の小物類も当時の人物たちとされる。そして奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、実は天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし→噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。しかし、幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。国芳は何度も奉行所に呼び出され、尋問を受け、時には罰金を取られたり、始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網をかいくぐりながら、幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。

3 件のコメント:

TAKATIAN さんのコメント...

なるほど・・暗号で風刺していたんだ・・
それを庶民が解いていたんだからなぁ。
やっぱり江戸の文化は高度だんだなぁ・・

さいとうあきら さんのコメント...

知恵比べで、取り締まる奴の知恵よりも、一つ上を行ってる…取調べる奴も笑っちゃう…

TAKATIAN さんのコメント...

取調べる奴も笑っちゃう・・・
笑わしたら勝ってことかァ。
にらめっこってそのへんから来てるかもな。